満足する死とは、何だ

男としてのあるべき姿というものがある。それはたびたび、というかしょっちゅう、個人的な喜びや心地よさとは相いれないものだ。
数か月前、寒くなってきたことのこと、会社内を歩いていると同じ部の女の子が一人でストーブを運んでいた。ストーブはかなり重く、か弱い女の子では持って運ぶことができないようで、彼女はそれを一生懸命引きずっていた。
男なら、ここで小走りに駆けよって爽やかに「手伝いますよ」と言いながらも一人で軽々とストーブを持ち上げ、どこに持っていけばいいか、と聞くべきなのだろう。それが男のあるべき姿だ。かっこいい。
しかし僕はすぐには声をかけなかった。それどころか、わざと歩調を緩めながら、ストーブを引きずる彼女を見つめた。「重いものを運んでる女の子って、いいよな・・・」と思いながら。
重いものを運んでいる女の子っていいよな。これは声を大にしては言わないけど、男ならみんな思うことだと思う。重いものとの対比で、女の子のか弱さが強調される。その素晴らしさ。たまにいるけど、華奢なな体をしてるのにやたらと大きなバッグを持っている女の子とかもいい。ずっと見ていたい、と思う。
話を戻すけど、ストーブを運ぶ彼女をいいよな〜と思いながらしばらく見ていたのだけど、どうやら長く見すぎていたようで、彼女が僕に気づいてしまった。彼女は顔を赤らめながら「あ、変なところを・・・(見られてしまった)」と言った。これまたパーフェクトな反応。
ここで僕は彼女に駆けより、「手伝いますよ」と言った。しかし運び入れるべき部屋はもう目の前だったし、やたらと恥ずかしがる彼女は僕の申し出をしきりに拒絶するばかりだった。
これは自分の快楽を優先しすぎたために、男のあるべき姿をないがしろにしてしまった、失敗例と言えるだろう。僕は重いものを持つのが嫌だったんじゃないんだ。ただ、重いものを持つ女(を見てるのが)が好きなだけなんだ・・・。


だけど、うまく両立させた例だってある。
この前あった飲み会で、変える方向が同じ女の子を送っていったことがあった。歩道と車道が白線だけで仕切られてる道だった。そしてたまたま、彼女は車道に近いところを歩いていた。というかやや白線をはみ出して歩いていた。
男ならば、さりげなく自分が車道に近いほうを歩くか、あるいは「危ないよ」と言って彼女を車道から遠ざけるべきだろう。それが男のあるべき姿だ。かっこいい。
だけど僕はすぐにはそうせず、車道側を歩いてたまに通る自動車と危うく接触しそうになる彼女を見て「いいよな・・・」と思っていた。
自動車と接触しそうなところを歩いてる女の子っていいよな。。これは声を大にしては言わないけど、男ならみんな思うことだと思う。生命の危険との対比で、はかない美しさが強調される。その素晴らしさ。たまに映画とかであるけど、難病の少女とかってベタだけどやっぱいい。何回も巻き戻して見たい、って思う。そんな感じ。
話を戻すけど、自動車と接触しそうな彼女っていいよな〜と思ってしばらく見ていたのだけど、あまりにも人間的にひどいことをしているような気がしたので「危ないからこっち寄れば?」と言って車道から遠ざけて、僕がそのポジションに代わりに入った。会話の中で言ったことで、その後も普通に話していたからそれほどあざとい感じもなく、自然だったと思う。
これは自分の趣味と「男」を両立できた成功例だったと思う。


うしおととら」で「泥なんて、なんだい」というエピソードがあった。「満足する死とは、何だ」と問う化け物の話。かなり好きな話。僕はうしおと話してみたい。ねえうしお、「泥なんて、何だい」というのには同意するけど、やっぱり半分、いや3分の1ぐらいは泥をかぶった女をかばって泥まみれになりたいじゃない?いやらしい話、ね?ね?うしおもそうでしょ?正味な話が、うしお、聞いてる?ねえってば。