コンビニの仕事は楽しい。とても楽しい。
だけど、僕が笑顔でいるかといえば、そうではない。むしろ無表情だと思う。
それはこの喜びが、外に出す類のものではないから。

コンビニで仕事をしていると、福音書のキリスト磔刑の場面を思い出す。磔にされてこれから殺される死刑囚が、同じく磔にされたキリストに「私も死んだら楽園にいけますか」と聞く。するとキリストは「お前は今、楽園にいる」と答える。

楽園は死後のものではない。また、どこかにある場所ではない。楽園は遍在する。いま、ここにある。

コンビニも遍在する。コンビニは東京にある、高知にある、幡多にある、ロンドンにある、ニューヨークにある。それらがすべて、同じである。僕たちは、どこのコンビニに行く、と考えるでなしに近くのコンビニに行く。そしてコンビニにたどり着き、コンビニで安息する。そんなところが楽園に似ている。

僕はコンビニで働く。僕は楽園にいる。楽園では神と僕が2人きりで、いや、1つになっていて、だから、無上の喜びを得ているにもかかわらず僕は無表情でいる。

表情は人に伝えるためのもの。喜びの表情は、喜びを人に伝えるためにある。だから笑顔を伴う喜びは、神を欠いていてどこか空しい。