ディアボロはなぜ死に到達しないのか

今酔ってます。ネットカフェで下書き。後でちゃんと書こ。

実家に戻ってきているので、ジョジョ5部を読んでいた。63巻のジョルノとディアボロとの戦いがとても面白いと思ったので書いてみる。こういう読み方がジョジョの楽しみ方だというわけではないのだけど。
キング・クリムゾンとゴールドエクスペリエンス・レクイエムの戦いとは何なのか、を考える。この2つのスタンドでは、時間というもののとらえ方がまったく異なっている。単なる2つのスタンドの戦いを超えて、時間というものをどうとらえるか、の衝突である。
2つのスタンドの違いを考える際、2つのスタンドが死をどのようにとらえるのかを考えてみる。クリムゾンの世界において、時間は過去から未来へと流れている。その「時間」においてクリムゾンは未来を予知し、また時間を消し飛ばすことにより自分に不都合な時間を乗り越えることができる。では、クリムゾン自身が死ぬときはどうなるのか。クリムゾンも死は免れない。いつの日か、死は必ずやって来る。クリムゾンは予知の能力により、自分が死ぬ場面を見ることになるだろう。クリムゾンの世界においては、そうなるはずである。
G・レクイエムはどうか。G・レクイエムの世界においては(G・レクイエムの能力を食らったクリムゾンには)死はおとずれる事がない。クリムゾンは繰り返し繰り返し無限に死ぬのだが、決して死そのものに到達することはない。死に限りなく近づくだけである。面白いのは、クリムゾンがその予知能力を使わないところにある。というよりも使えないのだが、クリムゾンは自分の死を予知しない。クリムゾンは、G・レクイエムの世界において、自分の死を見ることができない。なぜか。
説明するために問いをひとつ。人は死ぬか?答えは、死ぬ、である。確かに人は死ぬ。私はあの人が死ぬのを見ることができる。ここにおいて、時間は流れている。死ぬとは、生きていたあの人(過去)→死んでいるあの人(現在)として認識される。時間は流れている。あの人は死んだ。これはクリムゾンの(というよりも一般的な認識の)世界である。
では、もうひとつ問う。私は死ぬか?私は私の死を体験するか?答えは、体験しない。私は私自身の死に限りなく近づくことはできるけど、私は私の死を見ることはできないし、体験することもない。普通、人は自分の死というものを考えるとき、客観的な、他人の目から見たような、自分が死んでいる姿を想像するだろう。しかし、これは誤りである。自分の死とは、そういうものではない。私にとって、私から見て、私は死なないのだ。そして限りなく私自身の死に近づくことで、未来は失われる。私は私の死に限りなく近づき、流れていた時間は失われる。本来的な、原初の時間認識。これがG・レクイエムの世界である。
G・レクイエムを食らったクリムゾンは言う。「オッ・・・オレはッ!初めから何も動いていないッ!」動いていなかった。時間は流れてなどいなかったのである。クリムゾンは、G・レクイエムによってこれに気づかされる。
レクイエムについては、シルバーチャリオッツ・レクイエムも面白い。S・レクイエムの影はS・レクイエムを見るもの個人個人によって違う。S・レクイエムの影は、万人に共通する「太陽」によって作られる影ではない。個人個人の頭の後ろにある光体によって作られる影である。太陽によって作られる影とは、普遍な、人々に共通なものをあらわしている。個々が異なって見る影は、個々の精神がその他の精神と切り離されていることをあらわしている。これがそのまま、時間の観念の違いにつながる。影が太陽によって作られる世界とは、人が人と意識を共有している社会であり、それは、「私があの人の死を見る世界」であり、そこでは、時間は流れている。影が個々によって作られる世界とは、私の孤独な世界であり、私が私の死に向かい合う世界であり、時間などない。レクイエムの世界の根幹は、この精神の態度の違いにあり、それはG・レクイエムにも共通して言える。
G・レクイエムとクリムゾンの戦いとは、このように死をめぐる認識の違いの戦いであり、時間というものの認識の違いをめぐる戦いである。そして勝利を収めたのは、G・レクイエムである。