先日、店で良いカバンを見つけた。やっと見つけた理想のカバンだ。下らない細工がほどこされているわけでもなく、シンプルでいてしかし存在感のあるカバン。理想そのものだった。
購入して、とても嬉しい気持ちで家路を急いだ。明日からこのカバンを持って仕事に行くのだと想像するとワクワクしてくる。今までの大きすぎる安物のカバンじゃなく、ぴったりのサイズのカッコいいカバンだ。誰かに「お、新しいカバン、いいねえ」と言ってもらえるだろうか。考えるだけで自然と笑顔になる。

だけど家に近づくにつれて、ある不安に襲われた。理想のカバンだって?理想?理想なんて言葉、僕には似合わない言葉だ。何しろ僕はあらゆることにおいて受身な人間で、理想を持つなんてことには縁のない人間なのだ。理想がないから欲望もなく、何かをしたいとか、どうあってほしいとかいったことを思うこともない。目の前で起こったことを淡々と受け入れるか、あるいは引きこもっているかが常なのだ。「しょうがない」が口癖で、主体性が無いどころか、人にやらされたという言い訳さえ用意してもらえれば犯罪行為にだって手を染めかねない、そんな人間なのだ。

そんな僕が理想なんて言葉を使ってる。おかしい。猛烈に不安になり、家に着くなり袋を開けて包装を破った。中から出てきたのは水筒で、肩紐のついた0.5リットルぐらいの魔法瓶だった。目の前の事実が信じられなくて、頭がくらくらしてきた。なぜだ。どこでどうなった。僕の理想は、カバンはどこだ。
少し落ち着いてよく思い出してみると、たしか店を出たところで店員に呼び止められたような気がする。そして、水筒には水が入るけど、カバンに水を入れても漏れてしまうのだから水筒を買ったほうがいい、自分のお古の水筒と交換しよう、それがあなたの理想に近いのではないかと持ちかけられ、僕もそれはそうだと思ったので交換した、そんな気がする。そしたら店員がボールペンで僕の目の前をグルグルやりだして、なんだか気持ちよくなった。そこまで覚えている。

今ではもう、すっかりショックから立ち直り、買ったのが水筒でよかったと思うようになった。何しろ人間の80パーセントは水分でできているわけで、水無しでは4日も生きていけない。そんな大事な水を入れられないカバンというものはお金を出して買うに値しないと思う。僕はとてもいい理想の選択をあの店員のおかげですることができたと思う。