不動産屋に行った。予約しといた部屋が、住人が引っ越して空いたので見せてもらうのだ。
若い男の社員に車で連れて行ってもらい、案内されて部屋に入った。とてもいい部屋だった。自分がそこで住んでいるのを想像してみた。僕は座椅子に座り、6段階に傾きを変えられる背もたれを、水平から一段階上げている。そしてエアガンを手に持って、壁に立てかけたダッチワイフをパスパスと撃っているのだ。
この想像で、僕の胸は得体の知れない感情でいっぱいになった。僕はそれを幸せと勘違いした。なかなかいい部屋ですね、と社員の男に言ってみた。男は「そうですね」と言った。
僕はそのとき、男がポケットに手を突っ込んでるのに気づき、激しくイラついた。これから契約する客を相手してるのに、何やってんだ。接客がなってないぞ。生意気だぞお前。
すごくムカついたので、帰りの車内では一切喋らなかった。すばらしい沈黙が、車内を支配し続けた。不動産屋に近づいてくると、この沈黙のまま僕を帰すのはさすがにまずいと思ったのか、男は突然「うわお!」と声を上げた。僕はワンテンポ遅らして「どうしました?」と聞いた。すぐに尋ねないことで、男に「無視されたかも」という不安を与えるためだった。これはとても効果的だったようで、男は迷子の子供みたいな声になって、ハトが逃げないので轢きそうになった、と答えた。僕はその答えに対して、今度は本当の無視でもって応えた。
不動産屋に着いて、少し説明を受け、僕は帰ることにして自転車をとりに行った。自分の自転車の隣に、誰かの自転車があった。社員の男が僕を見送りに入り口から出て見ていることを確認して、僕は隣の自転車をわざと倒した。ガシャーン。うわあ、倒しちゃった。あ、あ、あ、自分やります、と男が駆け寄ってきて自転車を立て直し始めた。まだ男が一生懸命、自転車を立て直している最中だったが、僕はサッと自転車をこぎ出して帰った。


家に帰り着いて、聖書のマタイ福音書を少し朗読した。この世から不幸が無くなって皆が幸せになるといいなと思った。





ところで、部屋の方はなかなかいい。しかし家賃に「町内会費」が無い。部屋代と共益費と駐車場代はあるけど、町内会費の記載が無い。
ということは、だ。以前横浜で住んでいたときのように、20歳になったから町内会からお祝いとしてハンコつきの万年筆をもらう、みたいなことも無いということだ。そいつはなんだか寂しいな。